2002年7月4日No.64)

 

★「性同一性障害」の心を読み解く

 

*女装社員の解雇は不当と東京地裁が仮処分

 

「性同一性障害」と診断された男性が、女性の服装で出勤したとの理由で勤務先から懲戒解雇されたのは不当と東京地裁に仮処分を申し立てたのに対し、同地裁は6月20日、元社員の主張を認める決定を出した。すなわち、裁判官は「女装で就業しても、会社の秩序や業務に著しい支障が起きるとは言えない」としたのである。

 

決定によると、元社員は今年1月から「女性として認めて欲しい」と訴え、3月から女装で出勤した。しかし会社側はこの要望を認めず、女装しないように命じ、自宅待機処分とした。にも拘らず、元社員はその後も女装で出勤を続けたため、4月に懲戒解雇された。

 

日本で治療行為としての性転換手術が行われるようになって3年半。つい最近にも女性競艇選手が男性に登録を改めるなど、自らの望む性で働きたいと願う人が増えつつあり、この司法判断を受けて朝日新聞は6月23日の記事で「性同一性障害と職場」の問題を取り上げた。

 

「進歩派/人権派の旗手」を任じる朝日新聞だから全面的に性同一性障害の人達を支持するのかと思ったら、肩透かしだった。この記事の見出しを見ると分かる。

 

「職場の理解徐々に」だとか、「人権問題としての認識も」と、一見同情的だけれど、その実、「職場の理解徐々に」は「職場の理解はまだまだ」ということだし、「人権問題としての認識も」というのは「人権問題としての認識が出てきたとはいえ、現実はまだそこまで行っていない」ということだ。とどめは「なお根強い抵抗や不快感」の見出しで、どうやら、この記事の執筆者にも「なお根強い抵抗や不快感」があると見た。

 

それも無理はない。いくら男女平等が進んだとはいえ、男女の間には越えがたい一線があり、私達は生物学的な「性」を自明と受け止め、その変更があるなどとは夢にも思わない。従って、「今日から性を変更します」と告げられて抵抗感なく受け入れられる人間がどれほどいるだろうか?特に女性は、昨日まで男だった同僚が「今日から私、女よ」などと言って女性社員のロッカールームや女性トイレに入ってこられたら、いかに進歩的な人権擁護派が大手を振っている朝日新聞社でも拒絶反応を起こす人のほうが多いはず。

 

だから私は「女装で就業しても、会社の秩序や業務に著しい支障が起きるとは言えない」などという決定は、正直のところ、信じられないのである。

 

この裁判官は男、それに加えて「人権擁護絶対」のイデオロギーに毒されて、「弱者」のいうことなら何でも正しく、何でも認めてやらねばならないと考える教条主義者だから、こんな非常識な決定を出した/出せたのであり、女性裁判官だったら、正反対の決定になっていたと確信する。私はこの裁判官に言いたい。「それじゃ、あんたも一度女装して裁判所の女子トイレに入ってみたら!」と。どういうことになるか見ものだ。

 

*性同一性障害/TSとは

 

自分の「性」に違和感を覚え、男なら「自分は女」、女なら「自分は男」と考える人達を「性同一性障害」と呼ぶことが一般に知られるようになったのはここ1〜2年のことであるが、このような性転換希望者を英語圏では「トランスセクシュアル(=性を取り違えた人)」または「TS」 と呼ぶ。

 

彼らの主張によれば、TSは “trapped in the wrong body”、つまり、「間違った肉体に閉じ込められた」状態にあり、従って、その間違った状態を是正するために性転換手術を受けるというわけなのだ。つまり、「性同一性障害」は「病気」であり、生物学上の性と自己認識する性(ジェンダー)とのギャップを解消するために性転換手術を受けるわけである。しかし「性同一性障害」が本当に病気なら、男なら男、女なら女と、自分の生物学的性に適応できるようにカウンセリングをするのが医者の役目ではないのか?

 

私の見るところ、性同一性障害は自己暗示の産物に過ぎない。従って、この「障害」は病気かとの問いに対する私の結論は「ノー」だ。すなわち、彼らは生い立ちの途中、何らかの理由で自分を反対の性と取り違えたに過ぎない。

 

不登校の子供や非行を犯す子供の心理を分析すると、自分をありのままに受け止めてくれない親に対するわだかまりがあると言う。すなわち、子供は親に愛されることを熱望し、例外は只の一人もいない。なんとなれば、人間の子供ほど動物の中で無力な存在はないからだ。牛や馬などの草食獣は産み落とされて数時間もすれば元気に跳ね回るし、犬や猫のような肉食獣も1年も経てば一人前である。ところが人間は物理的成長が遅く、親に面倒をみてもらわなければ1日だって生き延びられない。だから子供は親を頼りにし、その愛情にすがるのである。

 

しかしながら、全ての親が子供を愛してくれるわけではない。とすれば、愛されなかった子供はどのように対応するのか?答えは簡単だ。親に愛されていなくても、愛されていると無理矢理に解釈するのだ。

 

すなわち、男の子ばかりが続いて次は女の子と期待していた親にとって、生まれてきた男の子は失望以外の何物でもない。でも、「なんだ、また男の子か」と切り捨てられた子供は辛い。「自分は望まれなかった子」になるわけで、その事実を受け入れることは難しい。つまり、男の子である自分は、その存在価値がなくなってしまうのだ。だから、肉体的には男だが、自分は本当は女なのだと思うことで親の期待に添い、「男の子の自分に価値はない」との思いを払拭するのである。すなわち、「自分は女の子」と思い込むことで自分の価値を無理矢理作り出すのである。そして、それ以外に方法があるだろうか?あるわけがない。自分に価値がなければ、自殺するしかないではないか。

 

家庭内暴力にも同じ倒錯傾向が見られる。未熟な親が子供を叩く。でも、叩かれる子供には親が未熟だから自分を叩くなどと分かるわけがない。とすれば、親の愛情を求める子供は叩く/叩かれることが愛情の発露と無理矢理解釈することで自己崩壊の危機を乗り切る。だから、暴力をふるわれて育った子供は大人になって同じように暴力をふるうことが多くなるのである。

 

上記の例はまさに例に過ぎず、女のきょうだいばかりの中に生まれた末っ子の男の子が、自分を姉達に同一化させた結果、「性同一性障害」になったという事例もあるだろう。人間なんて、人それぞれで、突拍子もない解釈をする人も多いのだ。従って、性転換を望む人は闇雲に手術に突進する前に自分の子供時代を振り返って自己分析をしてみるのがよいだろう。

 

TSの承認は社会の温情

 

私自身は「性同一性障害」を根拠に性転換を希望する人達になんら異を唱えるものではない。しかしながら、こうした人達には自分のジェンダーに相応しいルックスが必要と考える。なんとなれば、女から男への転換では問題にならないが、男から女への転換ではこれが極めて重要な問題(=障害)になるからだ。

 

女→男のTSではホルモン療法で髭が生え、喉仏が出て声変わりするから、少なくとも外見上は男になり、その点で問題が起きることはない。しかし男→女のTSの場合、女性ホルモンを注射しても髭はなくならないし、声も高くならない。つまり、女の外見を得にくい。その結果、髭の剃り跡が青々とした美川憲一ばりの低音で「私、女よ」と言われても、「はい、そうですか」とは、なかなかいかない。

 

「私は女です。男ではありません」と男を否定する以上、元の自分である男を完全に否定/消去してもらわないと周りの人間は納得できない。すなわち、男→女のTSは女に見えなかったら、元の自分を脱して新しい自分になれたといえないし、社会も対応に困る。「女になりたいなら、外見も女になってくれ」ということなのである。

 

男の外見を脱しきれないTSが女子トイレで痴漢扱いされないために、「あなたは性同一性障害であることを証明する」などという医者の診断書を肌身離さず携行するなんて、悲劇以外の何物でもないではないか。

 

重要なことは、性転換の承認は社会の温情であって権利ではないということ。考えてもみるがよい。「自分は自分でない」と主張して、例えば、自分はナポレオン/クレオパトラの生まれ変わりと信じ、そのように主張して世間が認めてくれるだろうか?認めてくれるわけがない(多分、狂人扱いになる)。

 

だとすれば、男なのに「自分は女」、女なのに「自分は男」と、「自分でない自分」を主張したからといって、世間がそれを認めねばならないなんらの理由もない(狂人扱いされても仕方ない)。

 

換言すれば、こういう人達は「自分は男だけれと女/女だけれど男」との思い込みが激しいので、生物学的性のままでいるより、いわゆる「性転換手術」を受けさせて反対の性として暮らさせたほうが本人のためだろうから認めてやろうというだけの話なのであって、「自分は男/女」という思い込みに過ぎないことを、「固有の権利」だとか、「人権問題」と主張するがごときは僭越に過ぎる。どう見ても女装の男なのに女性として接しろと強要される側の迷惑はどうしてくれるのだ?

 

こう言われたTSはたぶん反論するだろう。「男っぽいのは私だけじゃないわ。女性にだって、男っぽい人はいるわよ」と。

 

それはその通り。しかし、女は女であるが故に、いくら男っぽくても構わない/世間は許してくれる。それが「本物」の強みであり、そこが偽物(=元男)のTSと根本的に違う。例えば、プロレスラーの神取忍。彼女は生物学的に女だから、男に間違えられても「俺は女だ」の一喝で済む。この一言で、見間違えた相手は「お見逸れしました」となる。でも、大仁田厚が性転換して同じ事を言っても納得する人は少ない。それが現実である。だからこそ、「偽物」のTSには見た目が大事なのだ。

 

「自分は女」といくら固く信じ込んでいても、そんな内面は外からは見えない。だから、男→女のTSは「私は女」の独りよがりでは不十分で、「そこまで女になりたいなら、外見も女になってくれ/女に見えてくれ」と言いたいのだ。そうすれば女として受け入れやすい。

 

この社会はあなた独りで成り立っているのではない。従って、「私が“女”というのだから、私は女なのよ」の唯我独尊は通用しない。もちろん、女になりたいTSの気持ちも分かる。分かるけれど、「私は女」を押し付けられる側の違和感/抵抗感も考えてくれないと困るのである。

 

かてて加えて、「性転換手術」が認められるようになってたかだか3年半である日本の現実がある。従って、私達より性転換の受け入れにずっと長い時間を掛けた欧米でTSが市民権を得ているからと同じ権利を要求するなんて、身のほど知らずと言わざるを得ない。我国はこの件で欧米より、少なくとも、30年は遅れている。

 

その30年前のイギリスを知る者として、当時のイギリスの状況がどうだったかを最後に付け加えておこう。

 

*イギリスのTSは(男→女のTSの場合)

 

当時イギリスには拠点になるような病院(日本でいえば埼玉医大)に「Gender Identity Clinic」があり、TSはそこで精神科医のカウンセリングを受ける。そしてTSと診断されると、2年間「女性」として暮らすことを要求される。つまり、「女」として社会に溶け込むことが要求されるのである。

 

TSは元々思い込みの激しい人達で(そうでなかったら、自分を反対の性だなどと最初から考えない)、そのために「性転換手術」に過大な期待を掛ける傾向がある。つまり、いま自分が世間から白い目で見られているのは「男だから」であり、手術を受けて「女になれば」すべてが解決すると考えるのである。ところが現実は必ずしもそう行かない。その結果、手術後得られるはずの「ばら色の人生」が得られず、幻滅し、鬱になって自殺する例が結構ある。

 

もちろん、でっかくて、男っぽくて、こちらが身を引くようなTSでも「あたし、やっと女になれたわ。嬉ピー」と自己陶酔の世界で独り満足している人もいる。しかし、こういうのは少数派。

 

診断書をかざして「女」と認めさせるような生活では真に満足な女の一生を送れるわけがないので、後戻りが利かない「性転換手術」の前に「女」として暮らさせ、この適応がうまくいったら手術に進む、そういうプロセスを経るのである。

 

この場合、男として働いていた職場では、男から女への切り替えに障害が出ることがあるので、TSは職場を変え、自分の過去を誰も知らない新しい職場で「女」としての人生を始めることが多い(職場を変えてカツラを着用する男性に似ている)。そして、TSが社会的に認知されたとはいえない我国であってみれば、尚更この方法しかないのではないかと私は考えるのである。

 

もちろん、新しい職場の上司や同僚の理解が欠かせないことは言うまでもない。しかし、最初の出会いから女としか見えない人に「女」として接するのと、昨日までの男の姿が脳裏にちらつきつつ「彼女」に接するのでは、職場の同僚の心理には雲泥の差がある。

 

 

7月11日No.65)

 

★「性同一性障害」について行けない人達へ

 

「性同一性障害」などという言葉自体を知らない人が多いのだから、ついてゆけないのも無理はない。とは言っても、多くの人達は女性競艇選手が「男性宣言」するのをテレビで見たはずで、ああいうのを見ると、TSを認めてあげないといけないのではないかという気になる。しかし、男→女のTSの場合、剃り跡の青い髭を濃い化粧で隠したオカマみたいな人間を「同性」として受け入れるとなると、女性には強い抵抗感があるようだ。

 

「私は女」などという、事実に反する思い込みに過ぎないことが罷り通るなら、「自分は天皇」と信じた人(実在)はなぜ一生を精神病院で過ごさなければならなかったのだ?

 

民主主義も結構。個人の尊重も大事だが、明らかに間違った「思い込み」に過ぎない個人の主張まで尊重して「ごもっとも」と認めねばならないなんて、個人の自由/個人尊重の枠を越えており、明らかに行き過ぎだ。客観的事実を否定する「自分でない自分」なんて、あるわけがなく、これをあくまで押し通せば精神病院送りになっても仕方がないと私は考える。

 

とは言っても、私の頭は結構柔軟で、私自身は「生まれ変わり(reincarnation)」を信じないけれど、もしも現代の「クレオパトラ」がピラミッドに彫られた文字を読み、古代エジプト語を話し、シーザーやアントニーとの付き合いを詳しく語り、その話に信憑性があると考古学者や歴史学者が保証すれば「クレオパトラ」と認めて構わないと思っている。

 

同様に、TSも、自分のなりたい性に外見が見えれば彼らの主張を認めてやって構わないと思う(権利ではなく寛容/温情の精神)。すなわち、TSを認める上では「自分は男/女」という自己認識に加えて「男/女に見える(convincing)」ことが条件であるべきで、見えない人間は、残念ながら、そのような欲望を我慢してもらうしかない。そうでないと、周りが迷惑する。

 

それでも尚「私は女」を実践すると固く決意する女装のオカマにしか見えないTSは、パトカーか救急車のお世話になるしかないだろう。

 

私は男だから言うことが単刀直入で、一見すると厳しい。しかしながら、それは論理に基づいているから反論も可能であるが、「あんなオカマみたいな人が“わたし女よ”とか言って女子トイレに入ってこられたら許せない。生理的に駄目。」と女性に言われると反論のしようがないわけで、実際には私の主張よりもTSにとっては残酷だ。いや、TSにとって残酷なだけでなく、言っている女性も、TSに意地悪しているみたいで、後ろめたい気分を免れない。そこで、私がその後ろめたさを払拭してあげようと思う。すなわち、男→女のTSに違和感/嫌悪感を感じる女性は次のように言えばよい。

 

現代は確かに個人尊重の時代であり、個人の自由は出来るだけ認めてしかるべきだと思う。でも、「男女平等」といいながら程遠い現実があり、この現実に鑑みる時、自由とか、個人の尊重を理由に男が女の領域にずかずかと侵入してくると、いまだ「弱い性」にとどまる女性としては脅威を感じる。

 

「開放」は大いに結構。でも男が支配する領域が2とすれば女の領域が1、或いはそれ以下である今、同じ分量の開放でも男にとっては半分、女にとっては2倍の開放になり、結果として女の領域がより多く侵食されて、女性としては損をしたと感じる/不公平感が募る。それが現実。

 

だからこそ、例えば「男の助産士」、例えば「男→女のTS」というようなデリケートな分野はもうちょっと待って下さい。こういうのはもっと男の領域が女に開放された暁に解禁されるべきもので、30年先を行く欧米はともかく、日本においては今はまだ時期尚早と思います。こういう風に言えばよいのである。

 

 

7月15日

 

★「性同一性障害」/「性転換」再考

 

7月14日深夜、日本テレビで「ドキュメント2002」を見た。番組の主人公は競艇界に名を知られた美人選手の安藤千夏。今は改名して「大将(ひろまさ)」となり、服用している男性ホルモンのせいで声が低くなり、髭もうっすら。美人アイドル選手として鳴らしただけに惜しいと私は思うのだが、彼女は大真面目。3月にカミングアウトの記者会見をし、5月に男として初めて出走。競艇界にとってはよい宣伝になった。しかし、「38年間ごまかし続けた」とか、「自分に忠実に生きる/正直に生きる」と語るのを聞いて、こういう主張が受け入れられる社会的背景を考えないといけないと思った。

 

その翌日の15日、録画予約しておいた総合テレビの「クローズアップ現代」がチャンネルを間違えて教育テレビを録画。ビデオに録画されていたのは「人間ゆうゆう」で、そのテーマが、なんという偶然、「性同一性障害」だった。そして、これが2回シリーズだったので翌日も見てみた。ゲストは女→男のTSの虎井まさ衛。彼女というか「彼」は百パーセント男性のルックスで髭の剃り跡も青く、これなら「男同士」で酒を酌み交わしても何の違和感もない。その点、男→女のTSは番組中ではモザイクの陰に隠れ、「男らしくない」というか「女らしくない」というか、どちらでもよいが、市民権を得たいなら堂々と顔を出せって!

 

番組の最後に「TS/TGを支える人の会」のホームページが出ていたので以下のメールを送った。

註:TSは「トランスセクシュアル」、TGは「トランスジェンダー」の略。

 

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最近「性同一性障害」を扱ったテレビ番組を見掛けるようになり、どの番組もこの「病気」に悩む人達に同情的だ。彼らは、心は男なのに体は女、或いはその逆といった人達で、性転換して自分らしく生きたいと声を上げている。確かに心と体のギャップに悩む気持ちは分かる。しかし、と私は思うのだ。

肉体的には男なのに「女」のふりをすれば、それは一種の不当表示であり、偽装だ。牛肉や豚肉の不当表示や偽装はいけないのに、人間だとどうしてよいことになるのか、そこに疑問がある。

専門家は言う。外性器や染色体よりも心の性が大事と。しかし、自己認識がすべてであって、「自分が女」と思えば、男であっても女と認めるというなら、「自分はナポレオン/クレオパトラの生まれ変わり」と信じる人達はどうなるのだろう?

もっと現実的な例でいえば、白人の両親に育てられた黒人の養子が「自分の心は白人」と言ったら、白人と認めねばならなくなるのではないだろうか。

文革時代の中国で、もらいっ子だったために「日本人」と間違われ、何かにつけて「日本人」、「日本人」といじめられて育った中国人が「自分は残留孤児」と信じ込んだとしたら、彼/彼女を日本人と認知しないといけないことにもなる。

かつて私達はアパルトヘイト時代の南アフリカで「名誉白人」にされ、多くの日本人がそれを不名誉と感じたのではなかったか。黄色人種が白人を名乗ってどうするということではなかったのか。

だとすると、男なのに女を/女なのに男を名乗ってどうすると、どうしてならないのか?「性同一性障害」だけを例外にすべき理由は何なのか?きちんと説明して頂きたいものである。

 

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TS/TGを支える人の会」に出した上記メールにも書いた通り、「反対の性」を主張し、演じる人達は明らかに「不当表示」であり、「偽装」であって、彼らの主張は百パーセント誤りだ。しかしながら、欧米はもとより、この国でも彼らを認めてやろうとの雰囲気が大勢になりつつある。なぜそのような明らかな誤りをもこの社会は敢えて認めようとするのか?理由は2つある。

 

1つは「個人尊重」の行き過ぎ。第二次大戦は日独伊の全体主義に対する民主主義の戦いとも言え、全体主義に勝利した欧米民主主義の振り子が反対側に触れ過ぎ、「全体よりも個人」に過度に流れた結果、誤った主張でもしつこくしつこく繰り返し主張すると、そうした個人の主張を認めないといけないかのような社会的空気が生まれてしまう。韓国人名の日本読みから韓国読みへの転換など典型だ。

 

2つ目は、「個人尊重」をいう時、この「個人」は殆ど自動的に「マイノリティ」、つまり「弱者」であるということ。すなわち、私達の社会は「弱者」に優しいのである。ただし、弱者なら誰でもその主張が認められるかというと、そうはならない。マイノリティ/弱者としてのまとまりと強烈な自己主張が必要で、その成功例が同和と在日であり、彼らはいまや弱者の「エリート」である。

 

これを裏返せば、本当に弱くて自己主張が出来ない本物の弱者はこの社会では救われにくいということ。「弱者に優しい」といいながら、強くないと「弱者」にもなれない。それがこの世の現実なのである。