3月12日(No.99)

 

★仏映画「僕のバラ色の人生」を見て

 

テレビで仏映画「僕のバラ色の人生」を見た。

 

新聞のテレビ欄には次のようにあった。

 

「女の子になる事を夢見る7歳の少年。無邪気に女装する彼を両親は理解に努めようとする」

 

この「無邪気」につられ、楽しい映画かと思って見たのだが、どうして、どうして、極めて深刻な映画だった。

 

女の子の格好をし、化粧をするのが余興ならよいが、真剣に女の子になりたいとなったら話は別。両親は戸惑い、学校では阻害され、精神科のカウンセリングまで受ける破目に。

 

父親の上司の息子が好きになり、「結婚式ごっこ」までやったりしたことが響いて父親は失職し、母親はノイローゼに。

 

その結果、この子を巡って夫婦は「お前の育て方が悪い」、「あなたこそ」となり、家庭崩壊寸前にまでいたる。

 

しかしながら最終的には「あるがままでいい」と、取って付けたような「ハッピーエンド」。

 

原題はエディット・ピアフのシャンソンでお馴染みの「La vie en rose ラヴィアンローズ」をもじった「Ma vie en rose マヴィアンローズ」で、皮肉が効き過ぎたタイトルだった。

 

個人的には、こんな深刻な映画は金を払ってまで映画館で見ようとは思わない。でも、映画としての出来は非常によい。特に、主人公の男の子がよかった。何がよかったかというと、彼が普通の男の子だったこと。

 

あちらには、男の子でも天使のように奇麗で、女の子と見紛えるようなのが結構いる。でも、そんな子役を使ったら、観客はその子に自分を重ねて見てしまうから、彼が女の子になりたいのは当然ということになってしまい、「性同一性障害」の苦しみにリアリティがなくなるのみならず、監督が本当に描きたかったであろう家族の苦しみもまた絵空事になってしまう。だから、「普通の男の子」を主人公に選んだのは成功だった、そういう風に私は思う。

 

以上は私が見た映画に対する感想で、これからが私が本当に言いたいこと。

 

この映画の主人公のように、自分と違う性を生きたい「性同一性障害」の人達は結構おり、先日の朝日新聞にも「自分の望む性で生きる権利」を擁護する記事があった。でも私はそんな「権利」って本当にあるのだろうか疑問に思う。

 

生物学上の男が「自分は女」と信じるから「女」と認めろなどという何の科学的根拠もない主張が罷り通るなら、「自分はナポレオン/クレオパトラの生まれ変わり」と心底まじめに信じる人達だって認めてやらないといけないのではありませんか?この疑問にきちんと納得がいく返事を朝日新聞にはして頂きたいものだ。

 

確かに、昔は認められなかった「性転換手術」がこの国でも認められるようになった以上、証明書の「性」も変更しなかったら意味がないという議論は分かる。私も、そこまでやる人には認めてやるべきかなと思うのであるが、はっきりさせたいのは、それは「権利」ではありえないということ。

 

性同一性障害の人達は「自分は男だけれと女/女だけれど男」との思い込みが激しいので、生物学的性のままでいるより、いわゆる「性転換手術」を受けさせて反対の性として暮らさせたほうが本人のためだろうから認めてやろうというだけの話なのであって、社会が彼らの「望む性」を認めるのは寛容であり、温情に過ぎない。

 

現在、彼らは性同一性障害と診断されたら自分達の生物学的性が記載された公的書類の性別欄の訂正ができるような法改正を求めているのであるが、法律で決まったら、それは「権利」になってしまうわけだから、そんな権利の取得は、条件を厳しくして慎重にやってもらわないといけない。

 

具体的には、彼らを「性同一性障害」と認定して反対の性で暮らさせるお墨付きを与えるに当たっては、単に彼らの精神面(自分を反対の性と思い込んでいるかどうか)を見るだけでなく、彼らが望む性でやっていけるかどうかの社会的現実的側面をも勘案して判断してもらいたいと思うのだ。

 

持って回った言い方になったが、単刀直入に言えば、彼らが「望む性」に見えるかどうかということ。

 

いくら「自分は女」と思い込んでいたって、どう見ても「女装の男」では、周りはなかなか受け入れ難い。そうじゃありませんか?

 

こう言われた性同一性障害の人達はたぶん反論するだろう。「男っぽいのは私だけじゃないわ。女性にだって、男っぽい人はいるわよ」と。

 

それはその通り。しかし、女は女であるが故に、いくら男っぽくても構わない。いくらぶっきらぼうな振る舞いをしても世間は許してくれる。そこが元男と根本的に違う。

 

例えば、プロレスラーの神取忍。彼女は生物学的に女だから、男に間違えられても、「俺は女だ」と一喝すれば、見間違えた相手は「お見逸れしました」となり、彼女が女性であることを素直に受け入れられる。でも、大仁田厚が性転換して同じ事を言っても納得する人は少ない。それが現実である。だからこそ、女になりたい男には見た目が大事なのだ。

 

「自分は女」といくら固く信じ込んでいても、そんな内面は外からは見えない。従って、「私は女」の独りよがりだけでは不十分で、「そこまで女になりたいなら、外見も女になってくれ/女に見えてくれ」ということなのだ。そうすれば女として受け入れやすい。

 

性同一性障害の人達に言いたい。この社会はあなた方だけで成り立っているのではない。従って、「私が“女”というのだから、私は女なのよ」の唯我独尊は通用しない。もちろん、女になりたいあなた方の気持ちも分かる。分かるけれど、「私は女」を押し付けられる側の違和感/抵抗感/迷惑も考えてくれないと困るのである。

 

 

上記拙文に寄せられた読者からのメール「性同一性症候群」は遺伝子配列の異常(デイスオーダー)で生じるもので、本人も親も教師を含む環境も全く責任がないことは科学的な常識になっていると思います。それが理解されたので「性同一性障害者」の人権問題が世界的に議論されているのです。議論の前に一寸インターネットでお調べになったらと思います。議論の訂正をされては如何と思います。

 

私の返事あなたが指摘したようなことは百も承知です。でも、それは「性同一性障害」に同情的な一部の人達の主張に過ぎず、「科学的な常識」になど全然なっていません。これ、医学界の常識。従って、「議論の訂正」などするつもりは毛頭ありません。

百歩譲って、「性同一性障害」が遺伝子配列の異常だとしましょう。そして、そういう異常な遺伝子配列によって「性同一性障害」が起きるのだとしたら、そのような遺伝子配列の人達全員が例外なく「性同一性障害」を発症するのでなければ、彼らが「反対の性になりたいと願うことは仕方がない」ということにはならないはず。そうではありませんか?

 

同じ遺伝子配列の異常を持ちながら、ある人間は性同一性障害、ある人間はそうでないとしたら、そんな「異常」は異常と言えない。


どうですか。あなたも遺伝子配列を調べてもらったら。そして、同様の「異常」が発見されたとしたら、あなたは男を止めて女になるのですか?

 

「いえ、自分はそこまではしません」と言ったら、あなたはあなたの言ったことを自ら否定することになりませんか?